横浜のひと・絹のものがたり

インタビュー


生まれ育ったまち・横浜のむかしと今を記録する   町田昌弘さん


 町田昌弘さん

 

写真とデザインの工房 LIGHT HOUSE代表

1947年横浜生まれ。

40年間に及ぶ写真活動を通して数々の写真展で都市横浜の歴史や文化をレンズで追求。

消えゆく横浜の街の記録として2冊の写真集を上梓。

 

「横濱 ナイト&デー」(2009)

「横濱異文化記憶帳」(2020)

共に日本カメラ社刊

 

横濱異文化記憶帳:日本カメラ (nippon-camera.com) 

YOKOHAMA LIGHTHOUSE – Yokohama photo book(since1980~) by Machida Masahiro (wordpress.com)

 

 

 ◆異国との出会い・除夜の汽笛

 

 

町田さんの写真を初めて見たのはSNSのレトロな建物を紹介するサイトでした。

今は観光客で賑わうお洒落な赤レンガ倉庫の現役時代の写真は、2年前に訪れた上海の街の雰囲気を感じさせました。町田さんが撮りためていた横浜のまちはどこか異国のようで、それを見た私もエトランジェ(異邦人)になったようでした。

 

 

お会いしてお話を伺うと、コロナ禍で昔ながらのレストランなどが随分と閉店になり町の移り変わりが進んでしまったとのことです。町田さんは高校生のころから横浜の写真を撮りはじめています。

 

子どもの頃の大晦日の思い出は、「除夜の鐘」ならぬ、「除夜の汽笛」と聞いて驚きました。大晦日の夜、港に停泊している船が午前零時に一斉に汽笛を鳴らすというのです。町田家の障子をふるわせるほどの大音響の汽笛だったと伺い、横浜の暮らしの一端を知りました。町田さんの異文化記憶帳には、幼い頃からの横浜の景色や音が堆積しているのでしょう。

 

 ◆横浜の光と影

 

町田さんの写真集をめくりながら、忘れられた横浜を見つけました。横浜には4つの外国人墓地があることをご存知でしょうか。一番古いものは観光客で賑わう、山手にある外人墓地です。1854年、ペリーの2回目の来日時に同艦隊の24歳の二等水兵が墜死したため、ペリーが海の見える地にアメリカ人用の墓地を作るよう、幕府に要求したのが山手墓地の始まりです。生麦事件の英国人被害者も埋葬されています。関東大震災を経て、ここの敷地が狭くなったため根岸にも外人墓地が作られました。

 

 

 

「根岸墓地には米軍接収時、日本人女性と米兵の間にできたGIベイビーの嬰児が多く埋葬されているといわれています。R&Bバンド、ゴールデンカップスの元ギタリスト、エディ播さんが、作家の山崎洋子さんにGIベイビーの鎮魂歌の作詞を依頼したことから、山崎さんがお調べになり広く知られるようになりました。山崎さんはこのテーマで小説を書かれ、私が過去に撮影した墓地の写真を掲載してくださいました。

 

町田さんは35年ほど前に、GIベイビーの小さな木の十字架が並ぶ根岸墓地を撮影されていました。時がたち、現在それらは殆ど朽ちて失われてしまいました。町田さんが写真というメディアで、生まれ育った横浜の町を記録していたからこその貴重な一枚です。また、写真家は「何を撮るか」ということで、その感性を磨きあげていくことを感じます。

 

ユーミンの歌や、横浜元町のフクゾーやミハマというハマトラ・ファッションを体験してきた身としては、今も昔も横浜は異国情緒の漂うおしゃれなスポット。横浜での休日を過ごした後、町田さんの写真集をながめると、見てきた景色がまた違う陰影をもって甦ってきます。 (midori

 


おすすめ横浜本

町田 昌弘さん (著)

横濱を彩る“異文化"へのオマージュ
横濱異文化記憶帳 (NC PHOTO BOOKS) (日本語) 単行本 –発売中

 

・「天使はブルースを歌う」「女たちのアンダーグランド」 山崎洋子著

・「横浜の時を旅する・ホテルニューグランドの魔法」 

・「横浜タイムトリップガイド」 講談社

・「都市ヨコハマ物語」 田村明 時事通信社

・横浜外国人墓地,Yokohama Foreign General Cemetery (yfgc-japan.com)

 

 


横浜のきもの愛好家・丸山由利子さん  ホテルニューグランド本館ロビーにて


丸山由利子さん


NPO法人 つづき区民交流協会理事
元横浜市職員・アンティークの銘仙収集が趣味 
曽祖父は横浜家具の職人・母は横浜生糸検査所に勤務

丸山由利子さんはNPO川越きもの散歩の催しをHPで見つけて、横浜から川越まで毎回お出かけくださいました。

当会の横浜きもの散歩の案内人もつとめてくれています。

 

 

◆きものの話

 

 

「アンティーク銘仙のモダンなところが好きです。今日のきものも銘仙です。横浜で友人たちと、ときどききものでお出かけする催しを開催しています。でも、どうも横浜の人は茶事以外あまりきものに関心はないみたいです。()

 

 

NPO川越きもの散歩の秩父の養蚕農家見学会に参加したことから、いろんなご縁がつながりました。日本の絹は流通量の1%も満たないことや、養蚕農家の激減もはじめて知りました。同NPOの秩父の繭を100キロ購入し、顔の見えるきもの作りを行う事業に賛同し、富岡製糸場や本庄市の織元にも通いました。

 

本庄の黒沢織物の庭にある椿の花でシルバーグレイに染めてもらい、黒沢かつよさんが私のきものを織り始めたときに本庄の工房を訪問し、自分でも織らせてもらいました。

仕立てあがったそのきものを着て、秩父神社の蚕糸祭に参列し、蚕を育てた養蚕農家の方にきものを見てもらいました。

農家の方も喜ばれていました。秩父の繭でのオリジナルの私だけのきものが出来上がったのです。

洋服では出来ない、養蚕農家から始まる顔の見えるきもの作りに参加でき、特別な一枚となりました。

 

 

 

 

◆横浜家具の職人だった曽祖父

 

横浜元町の裏通りは、西洋家具発祥の地といわれています。丸山さんの曽祖父はここで修業を積み、明治後期から昭和30年代まで、山手に住む外国人相手に注文家具を作っていました。欧米の意匠と日本の伝統技術を合わせた和魂洋才の横浜家具にまつわるお話しを伺いました。

 

 

 

 

グランドホテルの絵葉書・関東大震災で倒壊した

 

「私の曽祖父は静岡から、兄が働いていた横浜に来て、一緒に横浜家具の職人になりました。兄が横浜に出た経緯も面白いですよ。千葉の運送屋が娘を連れて、静岡へお茶の仕入れに来たそうです。明治10年代はお茶と生糸が日本の主な輸出品。主産地の静岡から横浜へ運び、「お茶場」と呼ばれた外国商館などの焙煎工場で乾燥させ、横浜から輸出していました。お茶の運搬で静岡に来た千葉の運送屋の娘と静岡のお茶農家の息子(直吉の兄)が駆け落ちをして、千葉と静岡の中間の横浜で世帯を持ったのが、兄夫婦でした。同郷の兄の知り合いが西洋人を顧客とする「グランド・ホテル」で釜焚きをしていて、西洋人への好奇心から元町にあった家具製作所に出入りするようになったそうです。 

 

直吉は10歳で父を亡くし、兄を頼って横浜に来て兄と同じ家具職人の修業をはじめました。18歳で一人前になり、明治33(1900)年客船の内装の仕事に携わるため、長崎の三菱造船所(現三菱重工長崎造船所)で働くことになりました。何と4年後には

 

日本の造船史上に残る事業、日本で初めて1万トンを超える豪華客貨船「天洋丸」の内装にかかわりました。サンフランシスコ航路に就航した船で、欧米の客船に引けを取らない豪華な設備のものでした。家具は英国製でしたが内装はアールヌーボーに和風を加味したもので、和魂洋才のヒントをこの豪華客船の内装作りで身に着けたのではないでしょうか。長崎で所帯をもち、グラバー邸の近くに住んだようです。

 

その後船の内装の仕事が終わり、また横浜に戻り大正7(1918)年に山手と元町の間にある地蔵坂に家を借りて独立し、山手に住む外国人相手に、注文による家具作りを始めました。震災、戦災を免れ、ここで昭和30年代後半まで家具作りを行っていました。祖母の嫁入り道具は全部曽祖父が作ったそうです。今も洋服ダンスだけが親族の家に残っています。

 

ここ、ニューグランドホテルの本館ロビーや、山手の洋館に行くと家具が気になってしかたありません。曽祖父の作った椅子やテーブルかもしれないと、つい思ってしまうのです。

 

生糸の貿易港・横浜らしい景観を残したい 米山淳一さん


米山淳一さん

 

公益社団法人 横浜歴史資産調査会(ヨコハマヘリテイジ)常務理事
元公益財団日本ナショナルトラスト 事務局長


著書に『まちづくリとシビックトラスト』(ぎょうせい、共著)

『「地域資産」みんなと奮戦記』( 学芸出版社)

『歴史鉄道酔余の町並み』

『続・歴史鉄道酔余の町並み』(駒草出版)など

 

 

米山淳一さんは日本各地の歴史的建物の保存運動に関わってきた方です。

川越の蔵造りの街並みの保存にも尽力されています。

まちづくりの始めの一歩は「行政頼みではなく、市民ができることを始める。

そこからすべてが始まります」と仰います。

横浜と絹・まちづくりのお話しを伺いました。

 

◆横浜の繁栄は生糸から
横浜は国際貿易港として知られていますが、その礎を築いたのはまさに絹産業、絹文化です。小さな漁村だったまちが、開国後には、たくさんの生糸商や織物商が本町通りに店を開き、外国商館と貿易をする活気あふれた国内屈指の港町になっていきました。いまも当時の繁栄を物語る洋館や建物が確認でき、それらが横浜らしい景観になっています。
しかし、時を経て、絹貿易で繁栄したまちのルーツを、横浜が忘れかけていることも確かです。近年、絹文化関連遺産が続けて解体されてしまいました。帝国蚕糸の倉庫(横浜生糸検査所付属施設として始まった)や、三井物産横浜支店の明治時代の倉庫が消滅しました。共に明治時代の横浜の生糸貿易を象徴する建物でした。
 私たちの法人は、歴史的建造物の所有者に働きかけて一緒に保存の方法を考えることを行ってきました。観光客で賑わう山手の西洋館やシルクマネーを扱った馬車道の銀行建築なども多くの方の連携で遺すことができました。外国為替を扱った横浜正金銀行銀行(現在の神奈川県立博物館)の威容をみると「蚕の化せし金貨なり」という当時の言葉がよくわかります。

◆まちの景観は市民の行動の結果です
市民が活動した結果として、その町の歴史的景観が遺されていくのです。
横浜には日本の絹を運んだ鉄道の終着点として、鉄道遺産もあります。横浜のまちは単独でできたわけでは無く、多くの地域と結びつき、先人たちの発想と努力で築きあげられたものです。

◆シルクロードネットワークの設立
横浜から絹の道を辿ると全国に至ります。各地に残る絹文化遺産の足跡を辿り、その継承と地域連携の活動組織として、2015年に「シルクロードネットワーク」を設立しました。絹文化という共通のテーマで年一度フォーラムや研究集会を行っています。

国土交通省・文化庁・市町村など行政・市民団体が一堂に会して見学会や講演会を通して理解を深めます。

今までの開催地域は、福島市、甲州市、鶴岡市、城端、秩父市、新庄市、本庄市、飯能市、前橋市など。

次回は神戸での開催も予定しています。どなたでも参加できますのでWEBなどでご確認ください。  
米山淳一HP
ヨコハマヘリテイジ  公益社団法人 横浜歴史資産調査会(YOKOHAMA HERITAGE) (yokohama-heritage.or.jp)

シルクロードネットワーク