川越のひと・絹のものがたり

インタビュー



速水美智子さん
速水美智子さん

速水美智子さん

速水堅曹研究会代表 速水堅曹子孫

「原三渓市民研究会」事務局次長

「生糸のまち前橋発信事業」委員

 

 

川越・前橋・横浜をつなぐ製糸の父ー元川越藩士速水堅曹

 

元川越藩士で日本で初めての洋式器械製糸所、前橋製糸所の創設に関わり、その後富岡製糸場の所長も務めた速水堅曹という人物をご存知でしょうか。速水美智子さんは、十数年前に親戚の集まりでご主人の高祖父の堅曹のことを知り、残された日記など様々な資料を掘り起こし発信されています。富岡製糸場の世界遺産登録にあたっては、群馬県富岡市長とパリのユネスコ本部を表敬訪問されました。

 

速水堅曹
速水堅曹

川越藩士時代

「堅曹は松平大和守の家臣でしたので、27歳まで川越で生まれ育ち、幕末に前橋に移動します。住んでいたのは県立川越工業高校と川越街道の間にあった下級武士の長屋でした。父を10歳で亡くし、14歳で家督を継いだ堅曹は藩校には通えず、近所の同じ下級藩士に書物や算術を習いました。14歳で初めて川越城へ登城します。「狸番」と呼ばれる川越城の夜の泊り番でした。また、16歳の時に川越藩が幕府から割り当てられた品川沖お台場の警護で、当時の最新の大砲を撃つ訓練に参加。川越藩主の実父であった幕府の海防参与・徳川斉昭より「一段の事なり」とお褒めの言葉をもらいます。私も十数年前に川越の古地図をもとに、堅曹が「狸番」をした川越城や住まいのあった西小仙波を散策しました。戦前に道路拡張のためなくなった、と聞いていた速水家先祖の墓を、菅原町の妙善寺で

発見できたのはとても嬉しいことでした。

 

日本で初めての藩営器械製糸所の責任者に 

堅曹は藩命で生糸売込問屋「敷島屋庄三郎商店」を横浜に開きまた、スイス人ミュラーから製糸を習い、日本で初めての器械製糸所「藩営前橋製糸所」を設立しました。富岡製糸場開場の2年前のことです。姉の西塚梅、兄の桑嶋新平、上司だった深澤雄象と苦労をしながら製糸所の運営にかかわりました。当時、英国商社ジャーディン・マセソンから、資金提供や製糸器械の売込などもあったようですが、金額が折り合わず。ジャーディンとは汽船購入のキャンセルなどで裁判沙汰になり、その解決にも奔走します。

 

◆富岡製糸場長として手腕をふるう

 富岡製糸場の開場前から、前橋での経験を買われアドバイスなどをしていた堅曹ですが伊藤博文に頼まれ累積赤字が蓄積していた富岡製糸場の場長に就任することになりました。第3代・5代の富岡製糸場場長として手腕をふるいます。大久保利通、岩倉具視ら明治の元勲の信頼も厚く、福沢諭吉からは郷里・中津の製糸所の相談も受けています。

 

また、速水は外国商社を通さずに生糸を直輸出する「同伸会社」の設立にも尽力します。現在の狭山市広瀬出身の清水宗徳も設立メンバーです。清水は妻とともに、堅曹や桑嶋、深澤が設立した前橋の関根製糸所に研修に来て、その後埼玉県で初めての器械製糸所・暢業社を狭山で始めます。

後に政府から富岡製糸場の廃場案がでますが、それに対して堅曹は断固反対し、官営最後の所長として富岡シルクの名声を再度高め、黒字経営にして三井家への払い下げを見届けました。

 

川越藩の下級武士に生まれた堅曹ですが、前橋・横浜・富岡と日本の製糸のために生きた人生でした。壮年期には自分が教えた製糸所を訪問し、九州まで出かけています。幕末から明治の激動の時代を蚕糸業とともに歩んだ堅曹は、日本が清国を抜いて、世界一の生糸輸出国になったのを見届けるかのように大正2年(191374歳で横浜で亡くなりました。

 

詳細は下記HPをご覧ください

幕末から明治を生きた堅曹に学ぶ【速水堅曹研究会】 

速水堅曹が所長を務めた官営富岡製糸場            川越藩士時代、14歳で狸番(夜の警備)をした川越城本丸御殿   


さいたま絹文化研究会


発足記念講演会には法政大学田中優子氏がご登壇   第4回フォーラムのポスター・ 川越氷川神社(左)・秩父神社(中)・高麗神社の宮司(右)

埼玉の絹・蚕糸文化を伝えていきたい~日本の絹は0.1%  日本の製糸工場は2つしかありません。

 

養蚕と稲作は日本人の暮らしに大きな影響を与えた生業です。繭や絹にゆかりの埼玉県の神社、秩父神社、高麗神社、川越氷川神社の宮司たちが立ち上げた研究会です。
(一社)高麗1300とNPO法人川越きもの散歩が協力しています。
20年前、全国の養蚕農家は3280軒ありましたが、2019年には259軒に激減。埼玉県も19軒となり、日本の絹は0.1%しか流通していません。絶滅寸前の日本の養蚕を地域の文化として継承、次代へつなげることを目的に活動しており、年3回の会報発行とフォーラムの開催を行っています。

第4回のフォーラム「川越時の鐘と横浜の生糸商人」では明治26年の川越大火で焼失した時の鐘の再建に、横浜の生糸商(原善三郎、平沼専蔵、茂木惣兵衛(野沢屋)が多額の寄付をしていたことをテーマに川越と横浜の絹つながりを考察しました。川越南町出身の安斎羊造が野沢屋の支配人のひとりであったことが、川越と横浜をつなぐヒントかもしれません。川越市立美術館で安斎羊造の美術コレクションの特別展を企画した折井学芸員にもお話しを伺いました。羊造のコレクション収集は生糸マネーが支えていました。川越と横浜の生糸つながりはまだまだ埋もれた話が沢山ありそうです。

 

<さいたま絹文化研究会へようこそ> - saitama-silk ページ

 


川越市観光課 飯野英一課長


新型コロナウイルス感染拡大前の川越は、年間700万人の観光客が訪れる関東でも有数の観光地でした。

 

緊急事態宣言発令後はかつての賑わいは川越のまちから消え、夏の花火大会、10月の川越まつりも中止となる事態を迎えました。今後もコロナと共生の日々は続くこととなるでしょう。

観光の視点からお話しを川越市観光課飯野課長に伺いました。

◆「越えていこう、川越」コンセプトポスター制作
「コロナ禍で人の往来がなくなり、町の活気が消えてしまいました。川越は過去にも大火や水害などを乗り越えてきたという歴史があります。小江戸川越観光協会、川越商工会議所、川越市の共催で、ステイホームで打撃をうけた商店や会社、市民のみなさんの頑張る気持ちを共有し、活気ある市内経済や観光を取り戻していくためのメッセージを市内外に発信するプロモーションを行いました。みなさんから応募された写真をポスターにして、まちなかに掲示してもらうというものです。

 

一枚千円でポスターを作成し、先着千団体としました。最終的に800以上の団体、商店、個人の方からご応募頂き、約1000種類のポスターが完成。商店のウインドーや駅などに『越えていこう、川越』のポスターを掲示してもらうことで、未来への希望を多くの人と共有できたのではと思います。2020年のコロナ禍を川越のひとたちが、どう越えていこうとしたのか、ひとつの記録にもなりました。ぜひ、動画もご覧ください」


◆前橋・横浜とのつながりについて
「川越と横浜は、鉄道の相互乗り入れが始まった際に互いの地で観光キャンペーンを行ったことがあります。
前橋とは、幕末の藩主松平大和守つながりがありますが、今まで観光や交流という面ではあまりつながりがありませんでした。喜多院には松平大和守家のお墓があり、東日本大震災で墓石などがダメージを受けましたが、近年修復が終わり、整備されました。喜多院を訪れた際にはぜひ、本堂の裏にありますこちらも見学されてはいかがでしょう。絹をテーマに共通の関心で市民交流を行うことは、川越の魅力もみがいていくことになるので、いい視点だと思います」


◆きものを生かした観光まちづくり「川越きものの日」のはじまり
「平成23年頃に市内できものをテーマに活動している団体にお声掛けをして集まってもらいました。商店街のおかみさん会、商工会議所女性経営者の会、きもので七福神めぐりなどを開催している和裁士・小杉亘さん、イーグルバス、NPO川越きもの散歩さんなどと会議を重ねて、毎月8の日を『川越きものの日』として開催することになりました。観光協会が事務局となり、川越市も博物館、美術館、川越まつり会館をきもの来場者を優待料金にすることで、協力しています。レンタルきもの店も増え、街中に着物姿の人が増えました。着物の似合うまちということも川越の観光のセールスポイントになっています」という飯野さん。

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約10年程前、当時の観光課職員だった飯野さんが、市内のきものに関連する団体に呼び掛けたことから始まった「川越きものの日」。山吉ビル二階のイーグルバスの貴賓室で会議を重ねた日々が懐かしく思い出されます。それまでは、それぞれの団体が一堂に会する機会はなかったのです。行政がきっかけを作ってくれたことで、市民のやる気も盛り上がりました。今では「川越きものの日」の協賛店も200軒を超えました。10年前、観光課職員の飯野さんが蒔いた種が市民とともに実現していることは、行政と市民の協働事業のモデルとして伝えていきたいことのひとつです。(藤井)

 


市民が残した旧川越織物市場・幻の織物だった川越唐桟


◆旧川越織物市場の保存運動  
 
 平成13年(2001)に川越市松江町にある明治43年(1910)築の旧川越織物市場がマンション建築のため取り壊しの危機に瀕しました。木造の長屋が二棟、中庭を挟んでほぼ当時のまま残り、市立川越博物館に模型も展示されている産業遺産です。おもに蔵造りの並ぶ一番街の通りに店蔵をもつ織物商たちが出資し、川越商業会議所(現・川越商工会議所)が協力。設立にあたり、役員たちは織物先進地の八王子や桐生の織物市場を視察に行っています。貴重な歴史遺産を保存してほしいと地元の自治会、商店街、「NPO川越蔵の会」など市民団体が連携し、保存活動団体を立ち上げ2万人の署名を集めました。
 
保存決定までの半年間、火事や取り壊しから守るため町内の男性たちが交替で泊まり込み、昼間は女性たちが市場の一室で井戸端会議。私も子連れで連日参加し、町内に顔見知りが増えるきっかけとなりました。夜中にガラスが割られパトカーが来る事件もありましたが、毎日毎晩交替で詰めて乗り切りました。その後、川越市が現地保存を決定し、さらに二年後には川越市の文化財に指定され、現在復元修復を待っています。かつて織物市場で「無法松の一生」の映画ロケを行った三國連太郎さんにお手紙を出したところ、なんと現地に来てくださいました。この様子は拙著「小江戸ものがたり9号」で紹介しています。

何も行動を起こさなければ今頃はマンションが建っていたわけで、思いを行動に移すことの大切さを教えてくれました。
 
 この活動がきっかけで旧織物市場にきもの姿の人を増やしたいと思い、毎月28日に川越成田山別院で開催されるお不動さまの蚤の市に集合し、きもので町を歩く「川越きもの散歩」を始め、それがNPO川越きもの散歩の設立の基盤となりました。
「毎月8の日川越きものの日」の制定や、レンタルきもの店も増え、きもの姿はすっかり町の景色のひとつとなりました。

 (「小江戸ものがたり」編集発行人藤井美登利)

 

存に関わった市民団体がNPOを設立しました。 NPO法人川越織物市場の会
 

昭和30年代に映画「無法松の一生」のロケ地で使われた。 主演の人力車夫を演じた三國連太郎さんが訪問。 

◆絹のような木綿の織物「川越唐桟」
  幻の織物を市民が復元~   

川越は江戸時代から絹織物が盛んでした。特に「絹平」と呼ばれる夏袴の産地として知られていました。幕末、開国したばかりの横浜に絹織物を売りに行った川越の織物商、中島久平が英国製の細い木綿の紡績糸を入手し、それを川越周辺の織元で織らせたのが川越唐桟といわれる縞織物です。

産業革命で英国から細い木綿糸が安く入ってきました。木綿なのに絹の輝きがあると江戸っ子の間で有名になり爆発的に売れたのです。英国製の木綿糸が世界をめぐり、アジアの端の日本の横浜までもたらされ川越で商品 

写真提供 川越まるまるや                   となり日本人の服装に大きな影響を与えました。

                           きものは世界の動向をいち早くキャッチしていたのです。

 

明治26年の大火後に豪勢な蔵造りを建てた商人の多くは、川越唐桟を扱っていた織物買継ぎ商たちでした。彼らの多くは川越織物市場設立にも名を連ねています。しかし、川越唐桟はその後、大量生産ができずに途絶えてしまい、幻の織物となっていました。
昭和60年代に入り、川越唐桟を復活させる市民活動が始まりました。現在では、川越の呉服店で購入でき、市立博物館では復活に貢献した「川越唐桟手織りの会」が活動しています。 川越唐桟の小物については川越まるまる屋のHPをご覧ください。

 

◆川越唐桟と市民活動 ~卒業研究のテーマ    鏑木さかえさん(川越市)

 

 

 旧知の呉服店で、機械織で復活した「川越唐桟」を勧められたのは、今から30年ほど前のこと。川越ゆかりのこの着物は、私のふるさと自慢のひとつとなりました。 今般、大学の卒業研究の調査で、古くからの草木染糸と手織りの技法で、これを受け継ぐ市民グループ「川越唐 の桟手織りの会」の活動を知り、地域の芸術活動として「文化資産報告書」に取り上げました。

 

そこには、川越の歴史特性に誇りを持ち、伝統について真摯に学び合い、自分たちなりの方法で織物文化を守っていこうという強い意志があり、それはまた個人の幸せにも通じていると感じました。

これからも織物が繋ぐ、地域と人々の関係に注視していきたいです。

江戸の面影を探して ー復活した「川越唐桟(かわごえとうざん)」をめぐる活動ー | 芸術教養学科WEB卒業研究展 | 京都芸術大学